続・つれづれ草

徒然草は、終わっていなかった。

国立大学文系廃止論を切る!!!

去年の暮れかそれよりちょっと前、こんなニュースが日本を駆け巡った。

引用toyokeizai.net

 

この話題については様々な記事がでていて、「いや、廃止なんかじゃない、改革だ!」と報じているものもある模様(うーん、真偽のほどは......)

いずれにせよ、国立大学はその型を変えている過渡期のようだ。

 

 

この問題を考えるとき、二つの観点からアプローチしてみたい。一つは「国立大学の存在意義」そしてもう一つは「人文科学の存在意義」。

まず「国立大学」。明治時代の文明開化期、日本は欧米に追いつけ追い越せと様々な面で近代化を図った。当時の明治政府にとっての一番の課題、それは「国をまとめる」ということ(江戸時代は藩政治だったため、日本人であるという意識よりも〇〇藩人という意識が強かった)、教育はそれを果たすのに最適だった。

画一化された授業によって日本全国どの学校でも同じものが教えられ、徐々に徐々に「日本人」が形成されていく。そして大学(特に国立・帝国大学)はその最高学府であり、まさに「国のため」に貢献する人材が育成されていた。

現代の国立大学がここまで「お国のため」といった意味を持っているとは思わないけど、「日本を引っ張るエリート」といった意味では昔となんら変わらない。

 

次に「人文科学」。文系といっても経済・経営、法学といった実生活でも役立つ「実学」と、歴史、哲学のようななかなか役立ちにくい「虚学(人文科学)」がある。僕は、今回の文系廃止論はこの「人文科学」をなくしたいがために、邪魔者扱いしてるがために出てきたんじゃないかと考えている。

僕は大学で歴史学を学んで研究しているんだけど、歴史や哲学(人文科学)の本質は、どこまでも、事実とされていることを疑い、何か主張をしたいならその科学的根拠を示さなければいけないという学問。

例えば最近の例で言うなら、長い間鎌倉幕府は1192年に成立したと考えられてきた。しかし、研究者は既成事実にたいして疑ってかかるから「本当にそうなのか」と研究をし続ける。その結果、いまでは1185年が定説となっている。(この既成事実すら数年後に覆されるかもしれないが)

 

こうして、真理を探求し続ける姿勢はとても大切だけど、見方によっては国から邪魔者扱いされかねない。今の国の体制にすら疑ってかかるからだ。

これは単に、反体制的、といった意味で疑うのではなく、「本当に今の生活に満足できるか?」といった意味において疑う。(しかし、政府側からみればただの反体制)

 

国のエリートを育てる国立大学内部に国を壊しかねない学問を設置する、こんな馬鹿な話があろうか!!!というのが今回の国立大学文系廃止論の根底にはあると思う。

 

確かに、安定した政治のためには有効かもしれない。しかし、本来「子どもの幸せのため」にある教育が、こんな姿でいいのかと問題視せざるを得ない現状がそこにはある。

 

 

p.s.

記事を書くこと何ヶ月ぶりや......って感じです笑

はてなブログは本当に多様な考えを示してくれるのでたのしいですね!